日本語教育の重要性:人は言葉で理解する

 9時10分前を理解できない若手を生んだ日本語軽視のツケに紹介されるエピソードを読んでげっそりした。長くなるがその一部を引用する。

「部下に『そのタスクは結構、骨が折れるから覚悟しておけよ』って言ったら、『え? 肉体労働なんですか?』って返された。どうやら骨が折れるを骨折と間違えたようだ」

 

「社長に褒められた部下に、『現状に胡座(あぐら)をかいてると、後輩に追い越されるぞ!』って活を入れたらキョトンとされた。あぐらをかいて座ることだと思ったみたいです」

 

「送られてきたメールが一切改行されてないので『読みづらいから、項目ごとに改行しろ』と言ったら、『改行って何ですか?』と言われてあぜんとした」

 

「営業先で『お手やわらかにお願いしますよ』と言われ、会社に帰る途中で『あの人、やわらかいんですね。どうしたらやわらかくなるんですか?』と真顔で聞かれた」

 

 もっと、いろんなエピソードが紹介されている。実話とは信じられないが、実話のようだ。基礎教育を怠ってきたツケがまわっている。
 語彙力のない人間に、新しい発想はできない。人間は、言葉で理解する動物だからだ。考えることのできる範囲は語彙の集合とほぼ重なるのではないか?技術者の場合、その語彙の中に、専門分野の語彙だけでなく、数学という語彙も入ってくる。言葉だけでは理解できないことも、数式でなら理解できることも多い。図的能力も語彙の一種だろう。
 結局、教育というのは、人の語彙を充実させることが大きな目標なのではないか?その基礎中の基礎は、当然、日本語だ。
 昔、ある著名な情報工学の権威が、プルグラミング教育なんかやる時間があるなら、国語教育をしっかりしろ、と言っていたのを思い出す。英語教育とか、いろんなことを、小学生のうちに始めさせてなにがいいのだろうか?
 国語と算数、この2つが基本である。少なくとも、組み込み技術者はそうだ。仕様書を日本語で書き、回路のかなりの部分はオームの法則で計算する。若い頃に勉強してきたことこそが、技術者としての基礎能力だと思う。

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