本の雑誌風雲録:配本が本の雑誌の草創期を支えていた

 本の雑誌という出版不況の中で存在そのものが不思議な雑誌がある。本書は、その草創期をささえた目黒考二(私には書評家の北上次郎の名前の方が馴染みがあるが)の回顧録である。雑誌の中身そのものよりも、直接、本屋に雑誌を届けるという配本という仕事と、それをささえた学生バイト達の物語だ。何事も、草創期というのは、活気に満ちている。

アガサ・クリスティーの大英帝国: ポアロ以外も読んでみようかな

 ミステリの女王アガサ・クリスティーの作品を、観光、田園、都市という観点と、アガサ・クリスティーの生涯の観点とから整理・解説した本。
 作品そのものについても、著者の評価が書かれていて、アガサ・クリスティーの作品紹介にもなっている。
 私は、アガサ・クリスティーが好きだが、ポアロもの以外はほとんど読んでいない。この本を読んで、マープルものも読んでみようか、という気にさせられた。スパイものに対する評価が低いが、スパイものを1作だけ読んだことがあるが、これには同感。
 英国の当時の情勢を知って読むと、さらに面白く読めそうだ。再読に耐えるミステリーというのは、それほどないが、アガサ・クリスティーの作品はその1つであり、本書で得た背景知識で、再読してみようかと思っている。

ネットメディア覇権戦争:ネットのニュースの実態

 私は昔の人間なので、朝、新聞を読まないと、その日がスタートしない。月曜日の休刊日は、リズムが狂う。
 なので、ネットニュースを見ることはないが、周囲はLINEニュースでニュースを知る人が結構多い。そんなネットニュースのビジネスと、内容の実態を、昔ながらの取材で明らかにしていった労作である。
 本当の諸悪の根源は、どんなサイトでも、公告を出して広告料を払うというビジネスの方なのではないか、とも思う。今のネットビジネスは、結局、公告しか収入源がない場合が多いからだ。なぜ、偽ニュースの温床にまで公告を出したがるのが、または出してしまうような構造のなっているのか、そのあたりの実態の解明も期待する。

開高健の名言:谷沢永一お得意の作者文章引用での解説

 谷沢永一お得意の、ある一人の作者を取り上げ、その作者の著作の中から名言をピックアップし、解説を加えるという著作である。

小説家の役目 
「私はそういうわけで小説という小さな説を書いてメシを食べている男であります。ときどき身のほどを忘れて中説や大説を書いてみようとすることがありますが、しばらくすると、また小さな説にもどります。」

 この開高健の文章に続く谷沢永一の解説は、こうである。

「開高健は、それまでの日本近代小説の感傷的な伝統から、己を如何にきっぱり隔離するかの思念を持して出発した。それゆえ、彼は政治宗教科学哲学の代用品であるかの如き従来の小説伝統を徹底的に拒否している。」

 なんだか、本の中で、知の格闘をやっているような内容である。今回の対象である開高健は、谷沢永一の畏友であった。それだけに、解説の冴えも素晴らしい内容である。

 

「日本人論」再考:実は正しく読まれていない日本人論の古典

 まず、書き出しがいい。日本人による日本の理解には、国際日本、大日本、小日本の3種類がある、というところからスタートする。
 そして、各時代で代表的な日本人論について述べるのであるが、実は読まれ方に誤解がある、というところを解きほぐしながら、各古典を正しく解釈した上で、日本人論を語るという労作である。
 日本人論の古典の内容を正しく知るだけでも、この本を読む価値がある。

ソーシャルメディアの何が気持ち悪いのか:ソーシャルメディアが現代社会に入り込んでいる状況がよくわかる

 私は中高年世代だ。インターネットや携帯電話は、社会人になってから使い始めた。ブログは書いてはいるが、SNSはやっていない。どちらかというと、人見知りのするタイプの典型的理系人間である私にとって、SNSを始める気になれなかった。
 ツールというのは、子供の頃からあるものと、若い頃に出会うものと、社会人になってから出会うものとで、使い方が異なる。子供は大学生だが、彼らの使い方は、私とは全く異なる。
 そういう意味では、この本は、私と同じ世代の人間から見たソーシャルメディア論にすぎない。でも、その内容は、中高年にとっては衝撃的なものである。いろいろなエピソードは、断片的には知ってはいるものの、こうして整理されて提示されると、今後の日本はいったいどうなるのだろう、と思ってしまう。
 でも、新しいツールというのは、使いこなすのに時間がかかるものだ。最初は、いろいろな問題も出るだろう。でも、そのうちに適切な距離感を持って使いこなせるようになるものだ。現時点では、気持ち悪い使い方がされているのだろうが、時間が経てば、それなりに落ち着くのだと思う。