赤瀬川原平の名画読本:肩のこらない絵画の見方

 ミュージアム右往左往という別のブログも書いているくらいミュージアムへ行くのが好きである。だが、絵画展は、それほど好きではない。遺跡とか彫刻とか3次元のものが好きなのである。でも、有名どころが来ると、できる限り見に行くようにしている。
 本書によれば、それは、世間の評価で絵画を見ている典型的行為ということになる。でも、そんな自分でも好き嫌いはある。ルノアールなんかは、どうしても好きになれない。その好きになれない理由の秘密が本書で分かった気がする。
 評論家がよくやるような歴史的背景から説くのではなく、私は絵画をこう見ています、という本音が出ている。

超・反知性主義入門:読了するのに時間がかかってしまった

 日経ビジネスonlineで掲載中のコラムをまとめた単行本の第4弾である。私は、このコラムをWebで愛読していて、さらに単行本も購入して再読するというファンである。なのに、今回の単行本は購入してから読了するまで半年くらいかかってしまった。後書きを読んでやっとその理由がわかった。Web連載の文章に手を加え、少し贅肉を落とした文章にしているのだという。私は、贅肉のついた、少し行きつ戻りつする著者の文章が好きだったので、そうでなくしている文章を読んで違和感を感じていたのだろう。
 それは、日経ビジネス本誌の方で連載中の著者のコラムにも言えることで、そのコラムが誌面の関係で短すぎるのである。
 この著者の本領は、あーだこーだという思考の蛇行にこそ面白さの源泉があること、そして私がその蛇行が好きであることをあらためて実感した。

 

歴史上の本人:歴史上の本人に扮装して自分を語るという画期的な企画

 南伸坊というのは、本当に面白い。まず、歴史上の本人という題名そのものが面白い。どういう意味かは、本を手に取ってみないとわからない。
 歴史上の本人に扮装して、本人になりきって、自らの人生を語るという画期的な歴史探訪の手法である。おおまじめに、扮装いている写真も掲載されているし、あいかわらず文章がうまいので笑えてしまう。
 表紙の写真は、織田信長。人間50年で有名な舞の物まねもうまいらしい。人間以外にも、天狗になったり、シーサーになったりもする。笑えることは確かだ。

旅の流儀:名著「パリ 旅の雑学ノート」の著者の旅エッセイ

 玉村豊男といえば、「パリ 旅の雑学ノート」である。30年以上も前の新潮社文庫版を今でも私は持っている。こんな風に旅の記録を残したいと思ったけど、そんな才能は私にはなかった。
 その後、ワイナリー経営に転身したりして、旅に関する著書を見かけることがなかった。久しぶりに、玉村豊男の旅に関する著書ということで、手に取った。あの、旅の雑学ノートの勢いはないが、自分流の旅を、あっさりとした文体で書かれていて、年を取ったら旅というのはこうなるのだ、ということがよくわかる。雑学ノートは作れなかったが、自分なりの旅の流儀は作ってみたいものだ。

益川流「のろしろ」思考:ノーベル賞受賞者の雑文集

 何かを学べる本ではない。中身ははっきり言って、雑多な文章の寄せ集めである。ノーベル賞受賞者だがらという目で見ると、そうか、と思うだけかも。
 1時間もあれば読めるし、益川さんの変人ぶりも味わえるという意味では、面白いかもしれない。

 

人はなぜ学歴にこだわるのか:早稲田出身の著者にしか書けない本

 学歴というのは、なんなんだろう?社会に出てから30年経っても、たまに、学歴の話が飲み会の話題になることがある。
 そんな学歴に関する不思議を、自分の体験もふまえながら、かなり赤裸々に述べている。だが、これとても、著者が東大ではなく、早稲田出身だからこそ書けることだ、と思ってしまうのも、学歴にこだわるゆえなのかもしれない。

 

友だちリクエストの返事が来ない午後:大人にとっての友だちについて考えさせられる本

 友だちというのは、誰にとっても、大きな存在である。でも、そのことについて、考えることはしない。
 筆者の本は、いつもそうなのだが、普通の人の感覚で話を進める。いつものコラムと違うのは、それを友だちという、誰にとっても身近な話題について、書き進めていることだ。
 大人になってからの友だちというのは、どんな存在であるのか、ということを、あらためて考えさせられる。

 

昭和の玉手箱:昭和30年代以前に生まれた読者向け

 赤瀬川原平が亡くなり、他のブログで書いた(赤瀬川原平の芸術原論:千葉市美術館 – ミュージアム右往左往)が作品にもふれたりして、少し赤瀬川原平の本に凝っている。
 この本は、赤瀬川原平が語る昭和のモノに関するエッセイである。赤瀬川自身の体験と記憶で語られる。ただ、ここに書かれているものは、読者の年代を選ぶであろう。私は昭和30年代の生まれだが、それでもわかりにくいことが多い。たとえば、力道山が喫茶店やそば屋のTVで放映されていて、それが人気をよんだ時代は知らない。オート3輪も見たことはあっても、乗ったことはない。
 たぶん、この本は、私の世代あたりが読者として最も若い世代で、もう1世代前の読者は実感としてわかる本のように思える。

 

誰だってズルしたい!:東海林さだおのエッセイの面白さとしては普通かな

 東海林さだおは、漫画家として有名だが、エッセイとしても名人である。その本当に庶民丸出しの、小市民丸出しの、本音丸出しのエッセイは、笑わせてくれる。
 本書は、東海林さだおとしては面白さは普通くらいと思うが、そもそも東海林さだおのエッセイそのものが名人級なので、普通くらいの面白さというのは、おすすめということである。
 表題になったズルに関する考察は例によって小市民的ズルである。電車の空席、スーパーのレジ待ちなど、あらゆる場面で自分だけ得したいという気持ちから繰り出されるズルが考察される。

 

新物理の散歩道第1集:古典的な物理学で現象を解明する

 日経サイエンスが好きで、毎月読んでいる。だが、正直、素粒子理論などの最新物理学は難しすぎてよくわからないし、そもそも自分の日常とあまりにも違いすぎて興味を持てないことも多い。
 この物理の散歩道は、今はなき科学雑誌「自然」に連載されていた記事を単行本化したものをさらに文庫本化した本である。最も古い記事の初出が1961年というから本当に古い内容である。物理学を題材にしている本で、こんなに古いものは価値がないかというとそうではない。素粒子理論などの最新物理学を扱っているわけではないからである。基本的には、我々の見える世界、ニュートン力学(古典物理学)が扱う範囲の物理学を扱っている。こういう話題を扱っている記事は、実は最近あまりなく、貴重な内容である。こうした事情を端的に表現した内容が、解説にあったので、少し長いが引用してみる。

 日本の大学では、ロゲルギスト(この本の筆者の名前)の世代までは古典物理学を維持してきた。それが最近では-少なくとも理学部においては-雪崩を打って量子に傾いている。ほとんど古典物理学の痕跡はなくなってしまっただろう。これは由々しきことではあるまいか?
 というのは、実験の方面では、最終的には人が関わる以上、古典物理的な要素は欠かせないからである。工学と人の関わりは言うまでもなく、その基礎として古典物理学は重要である。「なくなった」というのは、だから光学とか流体力学とかいった古典物理学を専門とする部門がなくなったということだ。古典物理学が研究しつくされて問題がなくなったということではない。

 大学というのは、論文にならない研究はできないところである。でも、世の中には、論文にならない問題が多く残っている。この本が、いつまでも読めるということは、逆にいえばこうした題材を扱える研究者がいなくなったということに他ならない。まあ、工学系の先生に残っていればいいのかもしれないが。