エッセイの最近の記事

 渡部昇一先生曰く「95歳まで生きた人は苦しまないで死ねるようだ。だから自分も95歳まで生きる」。私も、そのお言葉に従って、95歳まで生きようと思う。
 まあ、実際には、寿命は人はコントロールできない。でも、95歳まで生きようと思うと、60歳からだと、35年もある。35年といえば、大卒の人の会社人生の大半である。大変な長さだ。それを生きるためのヒントが、この本にある。

 和田秀樹の本は、同じような内容が多く、何冊か続けて読んでいくと飽きてくる。久しぶりに読んでみたら、また少し違う視点があって面白かった。なるほど、と思える部分も半分くらいある。
 実行に移す前から過度に悲観的になるな、というアドバイスは素直に受け取っておきたい。

 本書に出てくる本とそのエピソードのかなりの部分は、今までの著作の中でも触れられている。それでも中身にひきつけられるのは、本の出会いと著者の若き日の成長とが同期しているからである。
 あの知性がどのように形成されていったか、その知性の形成に関わった本は何なのか、ということがつぶさにわかるのである。
 そういう意味では、著者の読書論の集大成的著作と呼べるかもしれない。

 冒頭、赤瀬川原平との思い出からはじまる。自分も、あの頃のあの人よりも年を取ってしまったんだ、という思いである。でも、客観的には、おじいさんでありながら、気分的にはおじいさんでない著者をめぐる面白い話が堪能できる。
 ところどころで出てくるツマとの掛け合いがまた絶妙である。特に、はじめて聞く人名や品名で、すぐには発音でいないものに出会うとスラスラ発音できるまで練習するとい習慣のエピソードなど思わず笑ってしまった。

 思考の整理学で有名な著者のエッセイである。例によって、乱読というキーワードをもとに、著者が考えてきたいろいろな経験を語る。読むべし、読まれるべからず、というように、あくまで考えることを中心とした読書論である。
 ただ、本署の中で面白いのは、「英語青年」といいう雑誌の編集を任されたエピソードである。どのようにして読者を得るか、というところから、エディターシップ論を発想したという読書とはあまり関係のないエピソードだったりする。

 私は技術者である。職業柄、ひとりで仕事をすることも多い。というか、もともと、ひとりで黙々と何かをやることが好きだから、技術者という職についたのだとも言える。
 最近の、つながり全盛時代の中で、ひとりで何かをすることが、孤独な人間のすることのように受け止められる風潮がある。そんな中で出てきたこの本である。この本の意味はそこにあるのだろう。内容は、どこまで共感できるかというと、やはり私とは異なるタイプの人である。でも、いろんなタイプの人が、ひとりでいることが好きなのだということを認識させてくれる。

 

 ミュージアム右往左往という別のブログも書いているくらいミュージアムへ行くのが好きである。だが、絵画展は、それほど好きではない。遺跡とか彫刻とか3次元のものが好きなのである。でも、有名どころが来ると、できる限り見に行くようにしている。
 本書によれば、それは、世間の評価で絵画を見ている典型的行為ということになる。でも、そんな自分でも好き嫌いはある。ルノアールなんかは、どうしても好きになれない。その好きになれない理由の秘密が本書で分かった気がする。
 評論家がよくやるような歴史的背景から説くのではなく、私は絵画をこう見ています、という本音が出ている。

 日経ビジネスonlineで掲載中のコラムをまとめた単行本の第4弾である。私は、このコラムをWebで愛読していて、さらに単行本も購入して再読するというファンである。なのに、今回の単行本は購入してから読了するまで半年くらいかかってしまった。後書きを読んでやっとその理由がわかった。Web連載の文章に手を加え、少し贅肉を落とした文章にしているのだという。私は、贅肉のついた、少し行きつ戻りつする著者の文章が好きだったので、そうでなくしている文章を読んで違和感を感じていたのだろう。
 それは、日経ビジネス本誌の方で連載中の著者のコラムにも言えることで、そのコラムが誌面の関係で短すぎるのである。
 この著者の本領は、あーだこーだという思考の蛇行にこそ面白さの源泉があること、そして私がその蛇行が好きであることをあらためて実感した。

 

 南伸坊というのは、本当に面白い。まず、歴史上の本人という題名そのものが面白い。どういう意味かは、本を手に取ってみないとわからない。
 歴史上の本人に扮装して、本人になりきって、自らの人生を語るという画期的な歴史探訪の手法である。おおまじめに、扮装いている写真も掲載されているし、あいかわらず文章がうまいので笑えてしまう。
 表紙の写真は、織田信長。人間50年で有名な舞の物まねもうまいらしい。人間以外にも、天狗になったり、シーサーになったりもする。笑えることは確かだ。

 玉村豊男といえば、「パリ 旅の雑学ノート」である。30年以上も前の新潮社文庫版を今でも私は持っている。こんな風に旅の記録を残したいと思ったけど、そんな才能は私にはなかった。
 その後、ワイナリー経営に転身したりして、旅に関する著書を見かけることがなかった。久しぶりに、玉村豊男の旅に関する著書ということで、手に取った。あの、旅の雑学ノートの勢いはないが、自分流の旅を、あっさりとした文体で書かれていて、年を取ったら旅というのはこうなるのだ、ということがよくわかる。雑学ノートは作れなかったが、自分なりの旅の流儀は作ってみたいものだ。